日記 (新 3 年 6 月 20 日, H915)

考えたらメモを癖にしたいです。

シャレイア語は、 自動詞と他動詞を同じ単語で表し、 区別は活用で行います。 他動詞の意味をもたない自動詞だけの動詞型不定詞はありますが、 他動詞だけの動詞型不定詞はありません。

さて、 昨日 fum 「始める」 や dok 「終わる」 の話をしましたが、 これは自動詞のみの単語です。 では、 「始める」 ではなく 「始まる」 はどう表現するのでしょうか? これは、 「誰かが S を始める」 と考えて fumosal e S とします。 主語が明示されない、 受動態のような表現になるわけです。

では、 なぜ 「始まる」 を自動詞にして 「始める」 を他動詞にしないのか、 という問題が浮上します。 これは、 主語 (a 句) が自らの意志でその行為を行える場合、 もしくは主語がその行為の原因になる場合に限り、 自動詞の意味になれるからです。 例えば 「コンサートが始まる」 という分を考えたとき、 コンサート自身が始めたいと思って始めるわけではありません。 したがって、 「~が始まる」 が自動詞として表現されることはないわけです。

こう考えると、 主語として置かれ得るのは、 意志をもつ人間 (もしくは動物の可能性もある) か、 原因となり得る出来事のどちらかに限られるのではないか、 と考えました。 出来事が主語になるのは、 以下のような例文のときです。 kin 節が主語になっているのが分かると思います。

saifes e del a kin qisesal e’n sacasal a’l e ces.
彼に会えて良かった。

と思っていた時期が私にもありました。 上の例文を書いていたら気づいてしまったんですよね。 qisesal の主語、 ここでは省略されてますけど、 あえて補うなら 「そのときの状況」 ですよね。 「状況」 は人間でも出来事でもないですよね

そこで思いついたのですが、 「状況」 を 「~であるという状況」 と考えれば、 少なくとも狭義のモノではないですから、 主語になり得るものを人間かコトだということにしてしまえば、 成り立ちますね。

追記 (新 3 年 6 月 24 日, H919)

6 月 24 日に続きます。